170806 岩手北三陸「野田の入り江の一つ橋歌碑」 

 8月6日所用で野田村へ往復する。帰りの国道45号野田バイパスを走りながら防潮堤建設の進み具合や公園の整備状況など見やりながら北上し、野田湾へ流入する泉沢川の袂を見ると何か石碑らしきものが見える~あれ何だろう~まさか元々設置されていて東北太平洋沖地震・大津波で流され行方知れずの歌碑では?とも思いつつ、駐車場に入り芝の運動場?脇~ジャリ道をたどり着いたら、まさにその通りでした。


 高山彦九郎が寛政二年(1790)旧9月16日に久慈を発って長内、川原屋敷、城内、五日町経由で、この一つ橋を渡り、玉川往復し現久慈市久喜から小袖泊りした日に詠んだ歌と平政村朝臣の歌、これを記した歌碑でした。


 大津波で野田湾~十府ヶ浦の深い淀みに沈み込んだかも~とばかり思っていました。少し痛々しいですが、ほっとしました。あとは多少手を掛ければ字面も見やすくなることでしょう。

平政村朝臣 「朽のこる野田の入江の一橋 こころ細くも 身ぞふりにける」


高山彦九郎正之「年経ればかわれるものや 今野田乃 入江もなみの磯となりけり」


*揮毫は、洋野町出身で久慈中学校などで教諭をされた南奎雲先生

 花崗岩かと思ったが、よく見ると砂質頁岩みたいな部分もあるし、火山性の変成岩的にも思える??

 国道45号野田バイパス、泉沢川のたもとにあります。ここに往古の時代「一つ橋」があったのでしょう。

 右側ブルーの橋げたは泉沢川にかかる国道45号の現橋、この手前に野田の中心街「城内」を過ぎ次のイサバヤの多く集まった「五日町」があり、「一つ橋」を渡って今野田小学校の立つ「古館山」の台地や沼地を右に見ながら十府ヶ浦の小高い丘に至ったようだ。

 東日本大震災前~2006年1月29日撮影の「一つ橋歌碑」

 同2006年1月撮影~歌碑の背面に、根こそぎ流された十府ヶ浦の黒松林が見える。

「山深くわけ入りてこそ光ある 玉の有りども 知らるるものを」~久慈市小久慈町の歌碑

撮影:2006年1月30日


 昨夏以来の「冷やしホヤら~めん」、定食・海鮮丼などメニュー豊富

 今年2月仮店舗から移転新築、やっと再スタート!十府ヶ浦食堂さん!!

*もともとは、海の見える十府ヶ浦にありました。